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Hさんは、人生の大半を、暴力の被害と精神的苦痛と共に生きてこられました。 最初は、父親から(厳しい躾と称する)、そして、次には夫からのものでしたが、そこから脱却するために技術を活かしていくことを決めました。 高校卒業は化粧品会社で働き、優れたメークアップアーティストとして腕を発揮したため、著名なメークアップスクールへの推薦も受けました。 その後結婚し、夫の仕事を続けました。しかし、子宮頸がんも見つかり、仕事を断念せざるを得ませんでした。 がんを克服した1年後に、Hさんは息子を出産しました。 夫の許可を得て、再び働きに出ましたが、フルタイムの仕事をしながら、軽度の精神障害のある息子の世話をすることは出来ませんでした。 そのため、仕事が見つかった時だけ働くという形で、人々の顔にメークアップを施す仕事をしていきました。 ある時、ある女性の顔の火傷の傷跡を隠すメークアップを施した時、Hさんは、自分の夢を見つけたと思いました。 それは、傷跡やあざで苦しんでいる患者さんを化粧で癒すメークアップアーティストになることでした。 けれども、Hさんは、夫から突然離婚届を渡されたとき、自分の夢は失われてしまったと思いました。 フルタイムの仕事がなく、自分と息子を養っていくための実質的な手段がありませんでした。 けれども、諦める代わりに、クライアントの自宅を訪問して、そこでクライアントの化粧品を使って、メークアップの方法を教えることを、自分の技能を認めてくれた皮膚科医からの励ましに助けられて、Hさんは今、セラピーメークのライセンスを得るために、さまざまはクラスを受講中です。 連盟レベルの「女性に機会を与える賞」に加えて、Hさんは、SI鹿児島と、日本南リジョンからも同賞を受賞しました。 |
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数年前、Vさんは、公認看護師になるという自分の夢を生きる可能性があるなどとは全く考えていませんでした。 断腸の思いをさせられるような損失と苦難を経験した後、Vさんは、息子と一緒に命からがら母国へ逃げ去ることを余儀なくされました。 初めての外国で、Vさんは茫然自失状態でした。「私は英語が話せませんでした。感情的にも落胆していました。祖国の親戚たちを懐かしく思い、これから先にある新しい難題に取り組むことを恐れていました。」と、彼女は言いました。 「けれども、私は自分のゴールに向かって進もうと決心したのです。それは、16歳の時から達成したいと思っていたゴールでした。」と。 経済的障害と個人的苦痛を克服する意欲に燃えて、Vさんは、英語を学び、高校卒業証書を取得するために頑張りました。 彼女は今、息子を育てながら、4年生大学で正規の学生として、看護学を学ぶ1年生です。 連盟レベルの同賞に加えて、Vさんは、SIヴァンクーバーと、ウェスタン・カナダ・リジョンからも、クラブレベルとリジョンレベルの「女性に機会を与える賞」を受賞しました。 |
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女性が自分の夢を取り戻すのを助けることは、まさしく「女性に機会を与える賞」の核心です。 女の子は、自分の人生をどのようにしたいかについてよく夢を見ます。 しかし、予期せぬ状況によって、時に、女の子は早く大人にならざるを得なくなることもあります。 彼女たちの夢は棚上げされますが、忘れ去ることはありません。 日本中央リジョンの2004年「女性に機会を与える賞」受賞者のE.Nさんの場合もそうでした。 Nさんは、祖先が日本人ですが、ブラジル育ち。そこでは家族は裕福な暮らしをしていました。 両親は、都会で事業を営んでおり、その都市でNさん、3人の兄弟、祖母と共に暮らしていました。 そしてNさんは、卒業生は全員、大学に進学するような高校に通う、優秀な生徒でした。 表面上は、Nさんは有望な人生を歩んでいるように見えました。 成功した女性になる一歩手前「にいたNさんの夢は、まったく自分に責めのないことによって打ち砕かれました。 父親は乱暴な男性で、母親を虐待していました。父親の虐待は耐えられないほどひどくなり、母親は父親と離婚しました。 1996年、Nさんが16歳のときに、母親、祖母、3人の兄弟と日本に逃げてきました。 Nさんは、大好きな高校を辞めることを悲しみましたが、日本で新しい学校に通えると、期待していました。 残念なことに、Nさんの日本の生活は、ブラジルでの生活とは程遠いものとなりました。 ブラジルでは、Nさんは明るく未来に向かって進んでいました。 しかし、日本では、学校はもはや選択肢ではありませんでした。 家族はブラジルから逃れるに際して、全ての所持金と所持品のほとんどを、置いて来なければなりませんでした。 ひとたび日本に来たら、2人の弟は小学校と中学校に通わなければならず、家族の生活費に充てるお金が十分に無かったために、Nさんは、働く決心をしました。それに加え、Nさんは、自分の理解できない文化や言葉に、どっぷり浸かっていました。 日本は不景気であったために、仕事を見つけるのは大変でした。Nさん、母親、兄が応募できそうな仕事はほとんどありませんでした。 「私たちは日本の国籍があっても、正規社員は難しく、日雇いの仕事しかありませんでした。」と、Nさんは述べました。 Nさんは、プラスチック形成工場で一生懸命働いています。 自分のシフトには遅れたことはなく、与えられた仕事が終わらない時は、居残りをしてやり遂げます。 「母は私に、いつも誇りを持って行動するように。と言いました。たとえ、残業代の支払いがなくても、誇りを持って行動するよう、ずっと心の中で繰り返しながら、ベストを尽くし続けています。」とNさんは言いました。 Nさんの熱心な働きぶりが人の目に留まらないはずがありませんでした。会社の社長はNさんを信頼し、従業員のリーダー《主任》を任せるようになりました。 Nさんは昼夜問わず工場で働かないといけないにも関わらず、それでも時間を見つけては、他の人達を助けています。祖母の世話をし、弟たちの授業料を払っています。また、母親と一緒に、日本に住んでいるブラジル人のために、ボランティアで通訳を務めることもしばしばあります。 Nさんはまた、介護2級の免許を取得するための勉強をしようとしていました。 しかし、「難しい日本語がたくさんあり、途中であきらめてしまいました。あきらめたことを悔しく思いましたが、そのことに不満は言いたくありませんでした。」と、Nさんは言いました。 「女性に機会を与える賞」を受賞する前は、Nさんの経済状態では授業料の支払いが困難でした。 「とても勉強したかったのですが、時間もお金も余裕がありませんでした。弟たちが学校に行けるように働き続けなければならなかったのです。」 Nさんは、流暢に日本語を話したり、書いたりできるようになりたい。と思っていました。また、高校を卒業することも望んでいました。 「母の同僚である中学校の先生から、通信制の高校があることを教えてもらいました。私は、卒業証書が得られるチャンスにすぐ飛びついたんです!」と、Nさんは叫びました。 「女性に機会を与える賞」の受賞は、Nさんに高校を修了する機会を与えました。自分が求める人生をこれ以上棚上げにしておく必要はありません。 Nさんは、SI高岡から300ドルと、日本中央リジョンから第1位の受賞者として5,000ドルを受け取りました。 高校卒業資格を得たなら、自分自身のように日本で働いている外国人の労働環境を改善したいと思っています。 「私は、外国人労働者が日本で暮らしている間に、日々経験している不安や悩みを聞いてあげられるようになりたいと思っています。」 更には、自分のコンピューター技術を磨き、日本で生活しているブラジル人のためのウェブサイトを作れるようになりたいと思っています。 それが出来れば、ブラジル人の暮らしをずっと楽にするツールになります。 Nさんは現在24歳で、家族と日本に着てから8年が経ちました。その間、Nさんは、家族のことを優先し、家族を支え、弟たちの学校費用の支払いを助けるために、一生懸命働きました。 「女性に機会を与える賞」のおかげで、Nさんは、ようやく自分自身のことに注意を払い、学校に戻り、取得間近だった卒業証書を改めて取得できるようになりました。 |
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Pさんは、日本人の男性と結婚するために、10年以上前にタイから来日しました。 3人の子どもができ、つかの間の幸せを味わいましたが、やがて夫はアルコール依存の問題を抱えるようになりました。 「夫は、お酒を飲むといつも乱暴になりました。」と、Pさんは当時を思い起こします。 子ども達が産まれた後でさえ、夫の暴力はひどくなり続けました。Pさんは、夫のもとを去ることを望みましたが、タイからの移民という身分により、日本で永住先を見つけることは困難でした。 9年間の結婚生活の後、Pさんはついに子どもを連れて逃げ出し、ドメスティック・バイオレンスのシェルターの「HELP」に身を寄せました。その後、間もなく夫は亡くなり、夫の家族はPさんと縁を切りました。 Pさんは、養わないといけない幼い子ども3人を抱え、全く身寄りも無い外国に残されました。 やっとのことで自分自身の住む場所を見つけたPさんは、今では、公的扶助とパートタイムの仕事で自分自身を支えています。また、「HELP」シェルターでタイ語通訳のボランティアを努め、困っているほかの女性たちにお返しをしています。 Pさんは、子どもが日本国籍でタイの市民権が認められないために、タイに戻ることはできません。 シェルターのスタッフの助けを借り、Pさんは日本の永住資格を申請しています。 日本東リジョンのSI武蔵と、SIAから賞を受けたPさんは、老人介護をするホームヘルパーの資格取得を目指していますが、まずは、日本語の読み書き能力を高めなければなりません。 「女性に機会を与える賞」の賞金を使って、新宿日本語学校に通うことにしています。 「私は、ホームヘルパーになり、助けが必要な人のお手伝いをしたいと思っています。」と、Pさんは述べました。 |
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56歳のFさんは、普通の人が経験する以上の悲劇を経験してきました。 彼女の人生のどの段階にも暴力が浸透していました。 Fさんの父親はアルコール中毒でした。母親が結核の診断を受けて隔離されると、Fさんは孤児院に住むことになり、そこでもしばしば虐待を受けました。 ある時、孤児院から彼女の母親のお葬式に連れて行かれましたが、その時、母親が亡くなっていたことさえ知らされていませんでした。7年後には、兄と、Fさんを歓迎してくれない兄の妻と共に住みました。 Fさんは16歳で結婚し、5人の子どもを産みました。けれども、夫が13歳になる娘を殴るまでは、家を出ることはしませんでした。 やっと自分の人生を変えることができるようになり、Fさんは、他の人々の生活を変えることを助けたいと決めました。 「性的暴行およびドメスティック・バイオレンス・センター」で働き始め、その後、「ハーパー・ハウス」」という虐待された女性たちのためのシェルターで働き、その後、二ヶ国語を使うカウンセラーとして働きました。 その後間もなく、妊娠中の娘さんが、暴力的なボーイフレンドに殺され、再び悲劇が訪れました。 Fさんは、「これ以上生きていけないよう感じましたが、私を必要としている子どもがまだ4人いました。」と、彼女は語りました。その代わりに、Fさんは一層強く、勇敢になりました。 苦労して家族を養いながら、Fさんは、アルコールおよび薬物濫用が対象のカウンセリングの学位を取得するため、短大へ入学しました。 彼女の最終目標は、4年生の大学に編入し、女性に対する暴力を撲滅するために働く。という自分の夢を実現できるように、ソーシャルワークの学士号を取得することです。 Fさんはまた、カリフォルニア州のSI/ウッドランドと、シエラ・ネバダ・リジョンから、「女性に機会を与える賞」を受賞しました。 |
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Sさんは、SI/コナの「女性に機会を与える賞」の第2位の受賞者として、クラブから500ドルを受け取りました。 Sさんは、一時は海洋科学の学士号取得を目指す、フルタイムの学生でした。 しかし、19歳の時に、第1子を身ごもり、大学を退学して、フルタイムのシングルマザーになりました。 今では、4人の子どもがいます。 人生の予期せぬ転換にも関わらず、教育を受けることは、Sさんが常に大切にしてきたことでした。 大学の学位なしでは、Sさんが家族を養うのに、十分な報酬を得る仕事を見つけることは困難でした。 今では、上の子ども2人は大学生になっているため、Sさんは、自分自身と家族のためにより良い生活を築く探求を続けることを望んでいます。 Sさんの夢は、ハワイの「国立歴史保護局」に勤務し、地球温暖化のような環境問題を研究することです。しかし、Sさんには、まだ養わないといけない15歳の娘と、13歳の息子がいます。 幸いなことに、女性に機会を与える賞」は、Sさんの負担を軽くします。 Sさんは現在、ハワイ大学ヒロ校に通っています。 |
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